アプリケーションで自分の脳をもっと身近に感じる未来

天野薫教授

profile

天野 薫(あまの かおる)

東京大学 大学院情報理工学系研究科 教授


略歴
2005年 東京大学大学院新領域創成科学研究科(複雑理工学専攻)博士課程終了、博士(科学)
日本学術振興会特別研究員、スタンフォード大学客員研究員、科学技術振興機構・さきがけ研究者(兼任、専任)、情報通信研究機構主任研究員などを経て、現職
情報通信研究機構未来ICT研究所・脳情報通信融合研究センター招へい専門員や大阪大学大学院(生命機能研究科)招へい教授も兼任
人間の視知覚や多感覚情報統合の脳内メカニズム、特にニューロフィードバックなどを使って脳活動操作する手法を開発し、知覚や行動に因果的に寄与する脳活動の解明を研究している
ホームページ:
https://www.brain.ipc.i.u-tokyo.ac.jp/


念じるだけでコンピューターを操作することができる――まるでSFのようなブレインテックの研究投資が加熱し、世界的に注目を集めている。脳神経科学とITを融合させ、医療から教育、健康管理など様々な分野におけるアプリケーションの可能性が広がる中、天野薫教授はまさに、視覚とアルファ波の関係を紐解き、脳情報を非侵襲的に制御する手法を開発している。インタビューからは、科学的根拠に基づいた研究を目指しつつ、倫理的な側面にも気を配る研究者としての真摯な姿勢が感じられた。天野教授の研究内容とともに、そこから考え得る応用技術がどのように社会と関わりを持っていくのか。そして乱立するブレインテックの近未来や、天野先生の研究方針などについて伺った。
(監修:江崎浩、取材・構成:近代科学社 DF編集部)


脳内メカニズムの因果関係から、脳を制御していく

Q.先生の研究について簡単に教えていただけますか
天野――私は脳活動あるいは脳構造の計測に基づいて、人の知覚・行動・認知の脳内メカニズムを明らかにする研究を行っています。特に、脳情報を非侵襲的に制御する手法、例えば経頭蓋電気刺激、磁気刺激、ニューロフィードバックなどの制御手法を開発し、それによって脳活動と知覚・行動・認知の相関関係だけでなく因果関係を調べる、というアプローチで研究しています。具体的には大きく2つの明らかにした研究があります。1つ目はアルファ波を外から制御する技術を開発し、アルファ波の機能を明らかにするという研究。2つ目は、この基礎研究から派生して、スマートフォンあるいはタブレット端末を使って、脳波計を使わずにアルファ波を計測し、脳の状態を把握するという研究です。

Q.相関関係と共に因果関係を調べる、とはどういうことなのでしょうか?
天野――2つの変数が相関しているからといって、因果関係を直ちに導けるわけではない、ということですね。観光スポットが充実していることと観光客数には相関関係があるかもしれませんが、どちらが原因でどちらが結果かという因果関係は必ずしも自明ではなく、観光スポットが充実しているから観光客数が多いのか、あるいはアクセスの良さなどから観光客数が多いことの結果として観光スポットが充実したのかは分かりません。そうした場合には、一方を変化させて、もう一方の変化を見る、つまり「片方を操作して他方が変化すれば、因果関係がある」ということで関係を証明します。

Q.脳機能の研究にもその証明方法を使うと
天野――はい。脳科学では例えば視覚、つまり物を見るときの脳活動に着目して研究を行う際、MRI【キーワード1】やMEG【キーワード2】という装置を使って、被験者に画像を見せながらそのときの脳活動を測ります。そうすることで物を見る際の脳活動――脳のどの部位が反応するかといった情報を得ることができます。しかし、画像を見ているときの脳活動を単純に測っても、見えそのものに関連している脳活動と付随的な脳活動を切り分けることができません。

Q.付随的とはどのような情報でしょう
天野――被験者がリンゴを見ているとしましょう。それがリンゴであると認識するだけでなく、おいしそうだな、とか、夕日のような赤だなといったことを連想する、ということです。ですので私は脳活動の計測だけでなく、磁気刺激、電流刺激、ニューロフィードバックなどの方法を使って脳の状態を変え、その結果として知覚・行動・認知が変われば因果関係があるだろう、というロジックに基づき実験を行っています。リンゴの例では、脳状態の変調に伴ってリンゴの色が変わって見えれば、変調した脳活動が色の見えを作り出しているということになります。これが因果関係を調べるというアプローチです。

Q.脳の状態を変える、については、どのような方法を取られるのでしょうか
天野――ニューロフィードバックを例にご説明します。まず先行研究などに基づき、脳のこの領域が関係しているだろうというターゲット領域を決め、その脳領域の活動やパターンをfMRIなどで測定します。そして「なってほしい脳の状態」というテンプレートのようなものを事前に用意しておき、「なってほしい脳の状態」と現状がよく合致していれば丸が大きくなり、あまり合致していなければ丸が小さくなる、という仕掛けを作ります。この丸のサイズを被験者に画像としてフィードバックするんです。被験者はこの丸のサイズだけを手掛かりに、自分で自分の脳活動を変えていき、目標とするパターンに近づくように変えていくということを行います。この課程で、ターゲットとした脳の領域の活動が次第にこの目標とするパターンに変化していくということが生じ、脳の状態を制御することが可能になります。丸のサイズの計算にデコーディングと呼ばれる技術を用いているため、この手法をデコーディドニューロフィードバックと呼んでいます(図1)。

図1:デコーディドニューロフィードバック法
図1 デコーディドニューロフィードバック法

Q.丸のサイズを合致させるのは、被験者が念じるとか、集中することでできるのでしょうか?
天野――そこは個人差があります。この方法では「この丸ができるだけ大きくなるように、頑張って自分の脳の状態を変えてください」というインストラクションを与えるだけなんです。具体的にどうすれば良いかということは私たちにもわかりません。被験者ごとに、真ん中にひたすら集中するとか、テレビ番組のシーンを思い浮かべるとか、計算するとか、完全に試行錯誤で違うストラテジーを取っていただく。ただ、その結果として、ターゲットとした領域の脳活動が徐々にその目標に近づいていく、ということが生じるんですね。全然違うことをやっているのに、なぜこのターゲットとした領域の活動が期待どおり制御しているのか? いくつか仮説は考えていますが、私たちでも分かっていないところがあります。

Q.自分で自分の脳活動を変える、という手法は先生独自の研究でしょうか
天野――いえ、このようなアプローチそのものは、脳科学の非常に長い歴史の中で、因果関係を調べるために非常に重要なツールであると認識されていろんな方法が開発されているんです。私は既存の手法に少しひねりを加えて、改良した上で使っているんですね。

アルファ波から視覚のメカニズムを明らかにしていく

Q.先ほど、アルファ波を制御する技術を開発されていると仰っていましたが、それはどのように関係しますか?
天野――アルファ波とは、8から13ヘルツ、つまり1秒間に10回程度の神経律動、もしくは脳の電気的なリズムです。リラックスしたり、目を閉じたりするとアルファ波がよく出るということが知られているため、従来の研究だと脳のアイドリング状態、つまり何もしていない状態を反映していると考えられてきました。ところが視覚情報処理、つまり物を見るという処理とアルファ波は非常に関係しているということが分かってきました。

Q.そこでも視覚との因果関係を調べられたのでしょうか
天野――その通りです。私たちの行った実験ではまず、黒の背景に赤と緑からなる図形がスムーズに動いている画面を被験者に見てもらいました。そうすると、真ん中の緑のバーはブルブルブルと震えながら移動して見えます。これは錯覚なのですが、実はこれが頭の中にあるアルファ波のリズムを視覚的に体験できている、ということを実証した研究なのです(図2)。私たちは錯視の図形と、本当に画面上で揺れている図形の両方を出して、本当に揺れている図形の周波数(揺れの速さ)を変化させ、被験者にどちらが速いかを2択で答えてもらいました。本当の揺れの速さと錯視の揺れの速さが同じように感じるときが、錯視の見えと本当の揺れの速さが釣り合っているということになる。つまり、この本当の揺れの速さを見てやればこの錯視の揺れの速さが分かり、錯視の見え方を定量的に測定できる、ということになります。

図2:錯視を使った実験の原理
図2 錯視を使った実験の原理

Q.錯視についてはアルファ波の研究から注目された?
天野――実はこの錯覚がアルファ波と関係していることは私の以前の研究結果なんです。アルファ波は他の脳波に比べて圧倒的に強度が大きいため計測が容易であり、信号が強いのでノイズにも耐えられる。そういった理由から着目していました。でも視覚との因果関係が分からない。本当にこの「錯視が見える」というプロセスにアルファ波が関係しているのか、あるいは見えた結果として付随して出ているだけなのか、というところが分からなかったので、それを一連の実験で明らかにしました。

Q.錯視に個人差はあるのでしょうか?
天野――ありますね。同じ図形でも、アルファ波が遅い人は遅く揺れて見える、速い人は速く揺れて見えるのか、つまり「アルファ波の周波数の個人差が錯視の周波数の個人差と対応しているのか」ということも調べました。その結果、アルファ波がもともと遅い人は錯視も遅く見え、速い人は速く見え、アルファ波の周波数とジター錯視の周波数に非常に高い相関があることが分かりました。次に因果関係を実証するため、アルファ波の周波数を強制的に変えたら錯視の見え方が変わるのか、ということを調べました。具体的には経頭蓋電気刺激という方法によって、その人のアルファ波より少し遅い電流を流したり速い電流を流しました。そうすることで、アルファ波の周波数を変えたら変えた分だけ錯視の見え方が変化するという結果が得られました。

Q.アルファ波は人の視覚のメカニズムと深い関わりがあったのですね
天野――そうなんです。視覚の情報処理というのは、色とか形とか奥行きとか、非常に細かい視覚の特徴に応じて分散的に処理されることが知られているのですが、最終的には全てを統合する必要があります。アルファ波は「その情報を統合するときのリズム、クロックのような機能として働いているのではないか」ということが、これらの研究から示唆されてきました。

アルファ波が脳の状態把握を簡便にするかもしれない

Q.2つ目のトピックスは1つ目の基礎研究から派生したものと仰っていました
天野――はい。アルファ波の個人差あるいは個人内での強制的な変化に対応して錯視の見え方も変わるわけですが、裏を返せば、錯視の見え方を測定するだけでアルファ波のリズムが分かる、ということでもあります。ここから私たちは、錯視の見え方を測定するアプリを作れば、脳波を直接測らなくても脳の状態が分かるだろう、と考えました。

Q.それがスマートフォンやタブレット端末で脳の状態を把握する話に繋がるのですね
天野――実はアルファ波は視覚以外にも、加齢に伴う認知機能の低下、睡眠とも関連する重要な指標なんです。そこで今作っているアプリでは、本当に揺れている画像と錯視の画像のどちらが速いかを被験者がタップしていくことで、大体5~10分ぐらいで測定ができるようになっています。測定結果も1日、1週間、月をまたいでどう変動したか、などが分かるようになっています(図3)。

図3:アルファ波計測アプリ
図3 アルファ波計測アプリ

Q.手元でアプリを見ながら操作するだけなら、かなり簡単に測定できます
天野――脳波計やMRIを使った実験は大掛かりになり、同じ被験者に何回も来てもらってデータを取るということも難しいことです。でもこの方法ならスマートフォンあるいはタブレット端末があればいつでもどこでも測れます。たとえば、朝昼晩と定期的に2週間にわたって図形の見え方を測定した結果、周波数は1日の中でもシステマティックに変動しているなど、従来型の脳波測定では得られなかったデータが得られるようになりました。

Q.脳には「意識」という研究領域があると思います。先生の研究の中で、意識への研究アプローチはいかがでしょう
天野――私の研究室のテーマは、ダイレクトに意識の研究と銘打っているわけではありませんが、恐らく多くの脳科学者がそうであるように、最終的には意識のメカニズムを解明したいと思っています。従来の研究では視覚の研究、聴覚の研究など細分化していて、視覚ではこういう処理、聴覚ではこういう処理を行っているということが分かってきましたが、ハードウェアとしてのニューロン【キーワード3】というのは基本的に全脳で共通しているわけですから、共通の計算原理みたいなものがあると期待されています。まだ現状では分かっていませんが。

Q.視覚については、現状はどのぐらい分かってきているのでしょう
天野――視覚の情報処理についてはかなりよく分かっていると思いますよ。形とか色とか、顔や車といった物体が脳の領域でどういうふうに表現されているかについてなどは理解が進んでいるかと思います。一方で私の研究とも少し関係するのですが、色や形や奥行きといった細分化された情報は、最終的に全て統合されて、色も形も奥行きもある物体として認識されています。そういう細分化されて処理された情報が「どう統合されるか」というところは、まだあまり分かっていない。実はその鍵はアルファ波なのではないか、と考えて研究を進めています。

スマホで認知機能の低下を防げるようになる?

脳の状態を理解することで、どんな応用技術が考えられ、そこからどんな新しい世界が見えてくるのだろうか。

Q.アプリでアルファ波の測定が可能になるとのことですが、今後はどのような応用が考えられるでしょうか?
天野――測定に関しては、ビッグデータ解析に基づき、精神・神経疾患等の兆候を検知しアラートすることが考えられます。また、測定に加えて変調ができるようになると、考えられるアプリケーションとしては一般ユーザーのQOL【キーワード4】の向上です。たとえば、不眠症の方は入眠前のアルファ波が少し速くなっている、と報告されています。これをもし、ニューロフィードバックで少し遅くすることができれば、もしかするとスムーズに眠れるようになるかもしれません。また高齢化施設などでの脳トレーニングというアプローチもある。高齢になって認知機能が落ちるとともに、アルファ波のリズムが遅くなってくることが知られていますので、周波数を少し上げるようなトレーニングをしてやることで、認知機能の低下を多少防げるかもしれません。

Q.そのためには、各自でニューロフィードバックを行うような仕組みを作るのでしょうか
天野――確かにニューロフィードバックは脳の状態を変化させる有力な方法ではあります。ただし、これまでの方法は非常に大型でコストがかかるという課題もあります。そこで私たちが考えているのは、新型のニューロフィードバック、つまりスマートデバイスだけで完結するニューロフィードバックです。図形の見え方を測定することでアルファ波の状態が分かりますから、その測定したアルファ波の状態を被験者にフィードバックし、そのフィードバックに基づいて被験者が自分で自分のアルファ波を変えていく、という仕組みです。

Q.先ほどの、目標のテンプレートに自分で近づけていく、というものですね
天野――そうです。スマート端末だけを使ったニューロフィードバックも有力ですし、匂いや触覚刺激などを使って脳に介入するということも考えています。こうした方法で脳の状態に介入し、ユーザーのQOL向上や高齢者の認知機能低下対策に資する技術を作ることができれば、と考えています。やはり従来型の脳計測は、被験者数が圧倒的に限られるので、スマートフォンだけで測れるという技術が確立できると、いろいろな展開が考えられるでしょう。

Q.先生の構想は現実のサービスとして、企業の関心も高いのではと感じます
天野――現状ではまだ企業と共同研究を進めるという段階ではないですけどね。ただ、これは今後の計画ですが、スマートデバイスによる脳状態の測定から情報をビッグデータ化し、さらに解析まで持っていく、ということを考えています。スマートフォンでいつでもどこでも測れるとなれば本当に桁違いのデータが取れますので。そのデータを集めるところから協力してくれる企業さんがいれば、ぜひ一緒にやりたい。興味を持ってくださる企業も幾つかあって、議論を始めている段階です。

Q.ビックデータ化する情報はやはり個人のアルファ波でしょうか
天野――いえ、アルファ波の情報だけを取ってもなかなか解釈のしようがないので、活動量あるいは睡眠、認知機能などの情報とひも付けることになります。実際にアプリはスマートウォッチとの連携機能を付けていきます。生活習慣の改善の促進、あるいは認知機能の低下や精神疾患の予兆がある、といった予測をビッグデータから導き出し、アラートを出すような機能というのも将来的にはあり得るでしょう。

Q.実際の応用は健康分野や医療関係になりますか?
天野――やっぱりヘルスケア分野の課題とは明らかに相性が良いですね。既に活動量あるいは睡眠時のモニターを通して健康を管理する、というサービスなり製品は存在していますが、専用の装置を使わずに気軽に脳を測るというのはまずないと思います。我々の知覚認知や記憶は、全て脳がつかさどっているわけですから、脳の健康管理は非常に重要だし、みんなやりたいのではないでしょうか。1週間の中で脳の状態がどう変化していくかなんていうデータが取れれば、さまざまなアプリケーションの開発が進められるのかなと思います。

Q.実装するにあたっての問題点はありますか
天野――たとえば心拍数などはもうスマートウォッチを付けるだけで計測できるのに対して、アルファ波の測定はアプリを開いて図形をタップするという作業が発生します。これはちょっと面倒くさくなって、続けるハードルになるかもしれません。同じ東大の稲見昌彦先生【キーワード5】が監修された、眼鏡型で脳波が測れる装置といったアプローチがあるのかなと思います。一方で、脳の状態に介入するという方面では、音を使って脳の状態を変える実験もやっていました。音を聞くだけであれば抵抗感は低くなりますし、将来的なビジネスとしても、ちょっと音を聞くだけで脳の状態が変えられるとなれば、アプリケーションの幅も非常に広がるはずです。

脳の状態を再現する世界はやってくるのだろうか?

ブレインテックが大金を注ぎ込む、脳情報を解読し書き込んで制御する研究はどこまで進んでいるのか?日本の立ち位置は?

Q.脳科学の研究を通して、これからの社会はどう変化していくとお考えでしょう
天野――ブレイン・マシン・インターフェース【キーワード6】が登場してくるのではないか、と考えています。ブレイン・マシン・インターフェースは、脳から情報を計測して解読する部分と、書き込んで制御する部分の2つのアプローチがあります。それぞれで研究が進んでいますが、制御よりは解読、つまり計測する方が技術としてはだいぶ進んでいます。MRIを使って見ている画像をある程度再構成したり、あるいはどんな夢を見ているのか当てるような研究結果が出てきていますね。

Q.では制御の方はどうでしょう?
天野――まだまだこれからかな、と考えています。実際、視覚野に電極を埋め込んで刺激をする侵襲的方法で、脳の中に書き込んだ文字を被験者が視覚的に認識できる、という研究報告が『Nature』に掲載されていました。映画「マトリックス【キーワード7】」のように、過去体験したシーンがありありと浮かんでくる、というのは、侵襲的な方法を使っても程遠い状況なんです。1つのアルファベットの文字を出せるかどうか、ぐらいのレベルということですね。

Q.制御の領域ですが、たとえば脳波を活用して外から脳に情報を書き込む、という方法はあり得るのでしょうか
天野――脳波のような非侵襲的な方法での書き込みとなると、例えば経頭蓋電気刺激がありますが、空間解像度の問題から詳細な情報を書き込むのは難しいです。我々が認識している世界を脳への刺激だけで作り出す、というのは、本当にできればすごいことですが、だいぶ先は長いでしょう。ですが最近は色々な企業が脳研究に進出してお金をつぎ込んいます。「ブレインテック」といって、イーロン・マスクが設立したNeuralink【キーワード8】という会社や、Facebook(現Meta)など米国の大きな企業が、脳をビジネスにつなげようと非常に多額の予算を投じて研究開発を行っています。このような時代ですから、技術は日進月歩で進んでいくと思います。

Q. 日本の「ブレインテック」の立ち位置はどのようなものになりますか
天野――ビジネス面でいうと、いわゆるAIの分野でGoogleなどが多額の資金を投入して研究を進めているのと同じで、NeuralinkやFacebookといった企業の規模感と比べるとかなり見劣りするでしょう。ただNeuralinkなどが目指しているのは、頭に電極を差して、そこから計測したり制御する侵襲的な方法です。私の所感では、健常な人が頭に電極を埋め込んでまで脳の計測や制御をするのはかなりハードルが高い。一方で、これまでお話したニューロフィードバックや経頭蓋電気刺激などの非侵襲的、つまり頭を傷付けない方法で計測したり制御する方法は、うまく進展していくと日本初の良い技術になってくれるのかなと期待しています。

天野薫教授※感染症対策のため、インタビュー中はマスク着用としております
※感染症対策のため、インタビュー中はマスク着用としております

脳の研究は倫理的な側面も視野に入れて慎重に進める必要がある

Q.これまで脳への介入に関するお話を聞いてきましたが、デリケートな部分である以上、倫理的な問題もあるように思います
天野――そのとおりです。まさに倫理的な視点もよく議論した上で進めていかないと非常に危険です。日々そういった倫理的な議論を心がけています。失われた機能を代替するという話はわりと受け入れられやすい領域ですが、人の認知機能を上げるとか賢くする、といった領域の話になってくると、かなり慎重にやる必要がありますね。

Q.研究を悪用される、あるいは悪用する、という問題意識は常にある?
天野――そうですね。やはり我々のような科学者は、研究にのめり込んでいろいろ試してみたくなるところがあると思います。仮に企業と共同研究を進める場合にも、倫理面に関するポリシーがしっかりしているところとやりたいですね。儲かれば良いというような考えは、危険と紙一重です。

Q.社会や企業への働きかけという面で、研究者だからできることはあるでしょうか
天野――今、ブレインテックの関連企業が乱立している状況だと思います。科学者としては、科学的な知見に基づいた成果、あるいは倫理的な問題、リスクの評価、そういう視点から社会への貢献ができるのかなと考えています。有益ではあるけれども、危険性も当然ある。そうした部分で道筋を立てていくことが、科学者としての見識の問われるところだと思っています。

ねばり強く諦めずに頑張れる学生が向いている

脳科学の研究室では実験が主体となるが、特有の難しさがあることも。天野教授の研究室は、どのようなポリシーで学生を育てているのだろうか。

Q.学生をエキスパートに育てるために、どのようなポリシーをお持ちですか
天野――脳科学では非常に長い先行研究の積み重ねがあって、それに基づいて研究が蓄積しています。だからやっぱり、学生さんが「これをやりたい」と選んだテーマだとしても、本当に意味がある研究ができるケースは必ずしも多くはないんですよね。もちろん学生の意向は聞きつつも、卒論や修論に関してはテーマを与えることも多いです。一方で、博士あるいはポスドクの方については、自分で考えてもらい、自発的にテーマを決めてもらうというポリシーでやっています。

Q.テーマを決めた後はどのように研究を進めていくのでしょう
天野――まず実験のデザインを行った後、画像を見せたり音を聞かせるというプログラムを作り、それらを提示している際の脳波やMRIなどのデータを取って解析し、最後に論文化します。実はこの解析がすごく時間がかかって、一連のプロセスが、場合によっては2年かかる場合もあります。ですが一連のプロセスを自分で全て行うことによって、本当に色々なスキルを身につけることができます。そのまま研究者を続けていく際はもちろん、社会に出た場合にも非常に活きると私は思っております。

Q.先生の研究室にはどんな学生さんが向いていると言えますか
天野――先ほども言いましたが、脳科学の実験は時間がかかります。それに結果が出ないことも少なくありません。ですので、粘り強く諦めずに頑張れるというところが重要です。学生さんの中にはテーマを与えても手が動かず止まってしまう方もいるんですけど、そうではなくいったん頑張ってみて、その上でまた考えるというほうが、最終的には実力が身につくように思います。手を動かしていくのが非常に大切なので。それで結果が出なくても粘り強くやっていけるといいですね。

Q.研究室の今後のテーマなどはありますか
天野――アルファ波を含む神経律動の機能がメイン研究の1つですが、最近では脳の個人差に着目しています。例えば立体視力、つまりどれだけ細かい奥行きが見えるか、には大きな個人差があることがわかっています。VRゲームなんかは立体映像ですから、非常に細かな奥行きを知覚できる人とそうでない人で違いが出てきますね。それと関連して、eスポーツ関係にも研究を広げています。

Q.eスポーツ選手の脳、に関してでしょうか?
天野――はい。eスポーツ選手は画像が出てきたときに非常に速く反応できるという特性がありますがそういった特性の違いも個人差の範疇になり、どのような脳の違いに起因するのかをMRIで測定することができます。

Q.確かにeスポーツ選手の反応速度は、普通の人とかなり違う感じがします
天野――おそらくは毎日のトレーニングの成果でしょう。そうした後天的な訓練で脳の構造も普通の人とかなり違ってきているはずです。いわゆるエキスパートと呼ばれる人の脳が、そうでない人の脳とどこが違うのか。脳の謎はまだたくさんあるので、学生さんと解き明かしていきたいですね。
(取材日:2022年1月20日)

キーワード

1 MRI:Magnetite Resonance Imaging(磁気共鳴画像)の略語。磁場、電波とコンピューターを駆使して、脳や体の中の状態を画像化する技術。脳の検査で最もその威力を発揮し、脳白質や皮質をきれいに分解して描出すことができるため、脳梗塞、脳腫瘍、脳出血など、様々な診断に使われる。

2 MEG: magnetoencephalography(脳磁図)の略語。脳内に僅かに発生する磁場変化を捉えて脳機能を解析するイメージング技術。医療においては、てんかんの診断に使われる。脳内の情報の伝達は、神経細胞間における電流のやりとりで行われており、電流が発生すると磁場が発生するため、これを記録する。脳磁場は微弱だが、超電導技術とコンピュータ技術の進歩によって可能となった。

3 ニューロン:生物の脳を構成する神経細胞のこと。人間の脳にはニューロンが100億から1000億程度あるといわれ、脳はニューロンが凝縮した巨大なネットワークとも言える。ニューロンへの情報伝達は、100mVの電位(神経パルス)によって行われている。

4 QOL:クオリティ・オブ・ライフ(Quality of Life)の略語。生活や人生が豊かであるということの指標となる概念。物質的な豊かさのみならず、生きがいや自己実現など精神的な満足度も重要視されている。

5 稲見昌彦:東京大学大学院情報理工学系研究科教授。SFアニメ『攻殻機動隊』に登場する技術「光学迷彩」を実現したことでも世界的に有名。本記事が掲載されている東大情報理工学系研究科ウェブサイト「フォーカス(教員紹介)」でも、インタビュー内容が掲載されている。詳しくはこちらhttps://www.i.u-tokyo.ac.jp/news/focus/inami_2021.shtml

6 ブレイン・マシン・インターフェース: Brain-machine Interface : BMI。脳波などの神経情報を読み取り、コンピューターやロボットアームなどのソフトウェアやハードウェアを制御する命令に置き換える技術ないしは機器のこと。高齢者や障害者などの支援ツールとして使われることが多い。脳波の検出や脳への刺激により、人間の脳と機械を直接つなげて操作するなど、人の意思を直接機械に伝える技術とも言える。

7 マトリックス:ウォシャウスキー兄弟が監督・脚本を務めたSF映画。仮想世界マトリックスで人生を送る主人公が、外部からの介入により機械に支配された現実世界を開放するために戦う物語。当時ハリウッドで一般的ではなかった哲学的要素や東洋的なワイヤーアクションを組み合わせた映像は「驚異の映像革命」などと言われた。

8 Neuralink:2016年にイーロン・マスクが立ち上げたブレイン・マシン・インターフェイスによる応用技術を開発する企業。「リンク」と呼ばれるチップを頭蓋骨に埋め込み、近距離無線を使って外部のコンピューターとつなぐ。将来的には、思考だけでデバイスやキーボードを操作できることを目指す。

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