脳のナゾを数理モデル(情報科学)で解く
コンピュータ科学専攻 細谷晴夫 講師

大脳皮質モデル『BESOM』で知能の仕組みに迫る
本ものの人工知能実現へ、情報処理の仕方にメス

細谷晴夫 講師 細谷講師は、コンピュータ科学専攻で唯一の脳科学の研究者である。目標にしているのは、「本ものの人工知能をつくる」こと。それを実現するには、人間の脳が情報処理をどのように実行しているか、そのメカニズムを知る必要がある。中でも、知能が発生する仕組みに焦点を当て、『計算論的脳科学』、わかりやすく言うと、数理モデルを使って迫ろうとしている。「非常に惚れ込んだ」魅力的なこのモデルを駆使すると、多くの脳科学者が予想するよりも早く、知能が生まれるプロセスがわかる可能性があると明快に答える。プログラミング言語の研究から脳科学研究に転身してわずか数年。きっかけは、2冊の本と研究者との出会いだった。「脳科学は情報科学者にとって本質的な貢献ができる絶好のチャンス」と位置づけ、それを数理モデルでつかみ取る確かな一歩を踏み出した。

数理的にモデル化し、計算機上で再現する試み

 「脳研究の動機ですか。自分を知りたいから」。趣味はピアノの演奏。研究で絡まった思考回路をほぐすのに大きく役立っているようだが、ピアノを演奏しているときは脳と体が極限にせめぎ合う時間という。そのときの自分を知りたいと思ったのだ。学問におもしろみを見いだしてのめり込むと社会から離れる、社会に近づこうとすると学問らしさがなくなる。このジレンマの中で、自分を知る脳の研究をしたいという欲求は消えることがなかった。

 ふと足を踏み入れた本屋で、1冊の本『脳の計算理論』が目を奪った。ページをパラパラと繰るうちに、脳に近づく道が説得力のある言葉で迫ってきた。自分探しの旅が始まった瞬間である。脳の研究は、それまでのプログラミング言語研究とは理論も考え方も発想もまったく違う。専門をただちに切り替えるには、ハードルが高すぎた。それを乗り越える後押しをしたのが、もう1冊の本『脳 回路網の中の精神―ニューラルネットが描く地図』である。この本は、従来の人工知能にはなかった、人やモノなどの概念が環境からの学習によって生まれてくるという斬新な視点が描かれていた。この衝撃が探求心を爆発させる引き金となり、脳研究へと本格的にシフトする。

 細谷講師はいま、計算論的脳科学という手法を使って、神経細胞がどのような結びつきをすると知能が生まれるのかナゾ解きを始めている。脳科学は実験を主体とした神経解剖学や生理学の手法を活用して、神経細胞の仕組みや脳のどの場所にどういう機能があるのかなどを調べてきた。その結果、膨大な知見が蓄積されたが、それでも部分的にしか見えず、脳全体を理解するまでには至っていない。神経細胞が組み合わさって生まれる機能を、言葉で説明するのではなく、“数理的にモデル化”し、計算機で“再現”できるようにしてはじめて、脳を理解したことになる―ここが細谷講師の主張である。

 知能を司るのは、脳の中でも、ヒトで最も進化したといわれる大脳皮質。表面近くにある薄いシート状の6層からできていて、その部分に視覚や聴覚や運動はもちろん、あらゆる高度な機能が分散して局在している。たとえば、目や耳から入ってくる外部の観測情報(ボトムアップ信号)と、脳の中枢から出てくる、過去の経験や学習したことを照らし合わせて「これはきっと、こうだ」という予測情報(トップダウン信号)、すなわち、観測と予測情報をもとに処理していることが、これまでの実験的な知見や脳イメージング技術の発達によって明らかになっている。この脳の中で起こっている情報処理のメカニズムを数理モデルで予測するために使った手法が『ベイジアンネットワーク』。情報科学の一分野、機械学習理論の一手法であるが、意外にも実際の脳の神経結合と強いマッチングがあることがわかった。こうして構築された大脳皮質モデルが『BESOMモデル』である。

大脳皮質モデルBESOM 脳の各部分のモデル
大脳皮質モデルBESOM 脳の各部分のモデル
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 このモデルを提唱したのは、産業技術総合研究所脳神経情報研究部の一杉裕志氏。昨年9月、ある研究会で偶然出会い、モデルの説明を聞いているうちに知能研究の突破口になるとひらめく。これを契機に共同研究に発展した。一杉氏も元はプログラミング言語の研究者。机を並べたことはなかったが、奇遇にもコンピュータ科学専攻の米澤明憲研究室の出身。この出会いが今年4月、脳研究をフラッグシップにした新・細谷研究室の立ち上げにつながったのだ。

10年後には、知能の基本部分を押さえたい

細谷晴夫 講師 具体的にどういうところから手を付けるのかを聞くと、「タスクを1つずつ設定し、シミュレーションしながら探りたい」。BESOMモデルは汎用的な枠組みを指定しているだけ。だから、視覚や運動などのそれぞれのタスクを担う神経細胞の集団については、自由にネットワークを組むことによって、集団がつくり出す機能を探り、計算機上で再現することを目指している。たとえば、いろいろな形のコップをどのように認識するか、たくさんの筋肉を自在に動かして行っている肘を伸ばす運動をどういう手法で学習し、制御しているかといった各機能にメスを入れ、それを集約して人間の知能を取り込んだ本ものの人工知能を実現していく。「シナリオどおりに展開できれば、10年くらいで基本的なところは押さえられるでしょう。この知能を持った自律型ロボットがひょこひょこ動き出すのは、もっと後になるかもしれないが、多くの脳科学者が予想しているほど時間はかからない気がする」と見通す。

 「脳科学は本ものの学問。人間の根源に迫れると同時に、応用の可能性は無限。だからおもしろい」と喝破する。興味がある、おもしろいと感じられれば、信じられないくらいのドーパミンが出て、むずかしいことも乗り越えられると言葉を継いだ。

 脳科学研究を始めるにあたって、細谷講師にいくつもの幸運が舞い降りた。有望な大脳皮質モデルに出合えたのも、視覚や聴覚、体性感覚などを使った高度なパターン認識から、運動の学習、行動の計画、いずれは言語も扱いたいという将来の夢を描けるようになったのも、幸運がもたらしたものだ。情報科学で脳の本質に迫ろうとしている細谷講師の挑戦は始まったばかり。近い将来、私たちが驚愕するような成果を見せてくれる、そんな自信が伝わってくる。

ISTyくん