分子の世界を情報技術で読み解く
コンピュータ科学専攻 萩谷昌己 教授

学際研究を主導、有望な4研究領域を発掘
DNAベースのナノシステムや合成生物学など

萩谷昌己 教授 科学の世界はナゾに満ちている。わからないことが多く、“あやしいベール”に包まれている。だからこそ研究者は興味を惹かれ、ナゾ解きの意欲をかき立てられるのだろう。今回の主人公、コンピュータ科学専攻の萩谷教授は、分子の世界のあやしさに魅せられ、そのナゾを情報技術で解き明かすことに燃えている。分子の働きをそのまま生かしたナノスケールの分子コンピューターやナノロボットなど、まったく新しいシステムを登場させるのに欠かせない、斬新かつ汎用的な計算モデルや計算パラダイムを理論的に構築することにフォーカスしている。情報技術でDNAなど分子のナゾに切り込んだ結果、「あやしいベールが少しずつですが、取れてきました」。力強い言葉が飛び出す。

誰でも使える汎用の計算モデル実現を目標に

 萩谷研究室は、論理学をベースに、新しい計算モデルの提案、意味論、各種ソフトウェアの検証や解析といった幅広い研究を推し進めている。セキュリティー技術では暗号システムの安全性の検証、JAVAで書かれたネットワークアプリケーションのモデル検査を行うなど、“安心・安全”にかかわる研究を重視しているが、教授はここ10年あまり、分子コンピューティングに軸足を置いている。「実は、分子コンピューティングも“安心・安全”の1つの応用なんです」

 コンピュータ科学とバイオテクノロジーの境界領域として出現した分子コンピューティング。その出合いは、1990年代半ばにスタートした未来開拓プロジェクト「分子計算」である。そのあと2001年度から5年計画で始まった「分子プログラミング」(文科省の特定領域研究)が生体分子の遺伝子DNA などに大きく踏み込む契機となった。分子レベルの情報処理機構を設計するという大テーマを掲げ、分子生物学、コンピュータ科学、数学、物理学、ナノテク、システム工学の分野を超えた研究者が東大、九州大、早大、北大、東工大から加わって取り組んだ。
“学際研究の手本”といわれたこのプロジェクトのまとめ役が萩谷教授。教授の視点は「情報技術がナノテクや細胞工学の発展に貢献できることは何かを探り、実証すること」にある。生命現象や化学反応は何らかの情報処理をしている、それを情報技術で解析する。また、DNA コンピューターをつくろうとするとき、元になるDNA の配列・設計を情報技術を活用して決めていく。DNA の設計や化学反応の解析に最適化の考えを持ち込むといった、細胞などを操る際に情報技術をどのように使えば可能かという視点で切り込んだ。そして、このプロジェクトから、これからの主流を成すと期待される4つの大きな研究の流れを創り出した。

DNAコンピューティングの広がり 「分子プログラミング」の主な成果
DNAコンピューティングの広がり 「分子プログラミング」の主な成果
※画面をクリックすると、拡大画像をご覧になれます

 (1)DNA をベースにしたナノシステム―自己組織化とナノロボット、(2)合成生物学(Synthetic Biology)―エンジニアされた細胞、(3)ナチュラル・コンピューティング―ナノテクや合成生物学を先導する新しい計算原理やモデル、(4)分子プログラミング―これらの実現を支える情報技術、の4つである。いずれもきわめてチャレンジングな新しい研究領域で、学際研究が効果的に機能して産みだした好例とされている。日本の研究者がその扉を開き、潮流への可能性を示したが、米国では合成生物学が立ち上がり始めている。合成生物学は、コンピューターや自動車をつくるように、生き物(細胞)をたとえば機械として設計していくアグレッシブな研究分野だ。米国MITでは、分子コンピューティングの研究者が生物学の研究者と連携する動きが出ている。

ヘアピン構造を活用した分子コンピューティング
ヘアピン構造を活用した分子コンピューティング
※画面をクリックすると、拡大画像をご覧になれます

 今年4月、萩谷教授は「ヘアピン構造を活用した分子コンピューティングの研究」で文部科学大臣表彰科学技術賞(研究部門)を受けた。DNA がつくるヘアピン構造に注目したこの研究こそ、(1)に上げた「DNA をベースにしたナノシステム」の底流となるものだ。DNA がヘアピンをはじめとする2次構造(ループ構造)を形成し解離する能力を、分子レベルの情報処理に活用する可能性を拓いたことが評価された。見いだしたのは、ヘアピンの形成による計算(分子レベルの効率のよい情報処理に)、ヘアピンの解離による計算(分離操作の必要のないアドレシングに)、ヘアピンの形成と解離の繰り返しによる計算(自律的に進む計算過程に)という3種類の計算方式。これらの計算方式が大容量の記憶媒体、情報処理能力を持つ分子機械、生体内の投薬制御などに寄与する期待があることを示したのだ。「分子の形態変化、分子反応など、私たちが知らない、捉えていない機能はまだたくさんあり、その1つを見つけたにすぎません。こういう発見を積み重ねていけば、将来、必ず分子マシンができるはずです」

オリジナル研究を担うマルチ人材育成へ

萩谷昌己 教授 4つの有望な研究領域で日本の独自性を発揮するには、研究資源を効率よく投入することが求められる。担い手となる研究者については、情報技術、物理、化学、生物学といった多彩な分野の研究者が、役割分担して学際連携することが成功の因であることは、前のプロジェクトが証明している。「1つの専門分野だけでなく、いくつかの分野に精通した人材が必要ですね。情報技術の観点から言えば、ベースとなる情報技術がわかり、生物学もわかり、実験もこなせるような人がほしい」。こうしたマルチ人材を育成し、協働させれば、日本から世界の主流になるオリジナル研究が現れるのも夢ではない。

 ナノテクや生物学の中身をプログラミングに置き換え、情報システムにする。それも、誰でも利用できる汎用システムにするのが萩谷教授の目標で、実現に向け拍車をかけている。趣味はと聞くと、「文章を書くのが好きですね」。連載したある小冊子に「東大はノーベル賞がとれるか」といった洒落っ気たっぷりのタイトルが目に止まった。中身は危うい、あやしい話ではない。こんな話題を提供できるのも、大きな学際研究をマネジメントし、成功させた実績が示すように、研究者としての真摯なキャラクターからだろう。

萩谷教授

ISTyくん